一高ラグビーに寄せる想い
頂点をめざせ! 大東文化大学第一高等学校
前 校 長 中 村 勤
春の高校ラグビーの幕開けを待つことなく、ボクは三月末日に学園を定
年退職、長年通いなれた大東一高に別れを告げた。大東文化に奉職したのは65年 。東京五輪の翌年だった。余談になるが、一高生も郊外学習の一環としてオリンピックのある種目を観戦した。サッカーだ。今では想像もつかないが、当時サッカーは不人気スポーツだった。そのためJOCは高校生を使って観客動員を目論んだのだろう。
サッカーよりもボクにとって未知なスポーツの1つがラグビーだった。
そのボクが、本校に奉職した途端、ラグビー部の存在に圧倒された。いきなり1年6組の担任になったが、どのクラスにもラグビー部員がいた。とりわけ、隣の7組は書道クラスという名のラグビー学級だった。担任は同期の故岩村先生だった。部員は毎日放課後遅くまで練習をした。そしてその中のかなりの者が練習終了後、クタクタになりながら、ボクの英語の補習を受けた。今も彼らの悲鳴が聞こえる。
創部3年で東京を制覇し、全国大会に名乗りをあげた。俄かにラグビー新興校として注目された。花園でも初陣を飾った。学校は沸き立った。生徒会が愛好心をリードした。一高新聞の一面はラグビー一色だった。本校草創期の“徳丸たんぽ“は泥にまみれたラグビー部員の姿を一体化する。
大東一高にお世話にならなければ、ラグビーとの出会いはなかっただろう。一高ラグビーの栄光は1986年1月の第65回大会全国制覇を頂点とする。鮮烈な快挙であり、当時“白熊軍団”として恐れられた。多くのオールド・ファンは花園で相手チームを全試合ノー・トライに封じこめた往時を懐旧し、語り草にする。が、時代の変遷とともにラグビーも変わっていく。世界のラグビーそのものが変化し、進化している。その影響にわが国ラグビーも、そして高校ラグビー界も無縁ではいられない。本校が花園で頂点を極めてから32年が経過する。特に90年代になりラグビー部の動向と進み行きが気になってきた。都予選の決勝後、全校応援の場が江戸川競技場に移ってからだ。それまでの秩父宮での思い出はボグにとって勝利の歓喜より屈辱との惜敗の涙だった。その江戸川で、雌伏7年、ラグビー新興校TS高校を破り、都第一地区を制したのが95年。ときの本校キャプテンの感涙が今も目に焼き付いて離れない。この久々の花園出場を機に「応援する会」が結成された。
「応援する会」に集まった人たちは、また多くのOBたちは、そして何よりも大東一高生との教職員たちは“常勝一高ラグビー”を夢みた。が、現状は甘くなかった。その後連続して、また断続的に花園への切符を手にしたものの、近年、都予選の壁は厚く、秩父宮での涙を飲む年が続いている。
2012年に一高は創立50年を迎える。その一高の歴史に寄り添うようにラグビー部も歴史を刻んできた。
いまこそ、奮起と飛躍を求めたい。過去の栄光の懐旧では発展は期待できない。先輩の足跡の継承によっては壁は崩せない。真の伝統とは何か。「伝承に創造を加え伝統になる」と言いたい。
いまNZの姉妹校Avondale Collegeから第15回研修団が来校している。同校との定期交流も今年で20年目になる。交流が始まって間もないころの90年、Avondaleは大火災に見舞われ、校舎1棟10教室と校長室など管理棟が焼失した。火災の翌朝、今は亡きPhil
Raffills校長は全校生徒をグランドに集め宣言した。“We are down but not out!”(我々は倒されたが屈服しない)
そして、その日から教師・生徒一丸となって焼け跡を始末し、1週間後授業再開にこぎつけた。我が盟友Phil Raffillsが生徒たちの心に刻みつけたモットーは、Courage(勇気)とCollaboration(協働)そしてCreation(創造)の3Cである。このモットーはラグビーに通じるものがある。
最近に見る閉塞感を突き破るには、いま一度ラグビーの真髄を追求することだ。そして、‘Get to the Top’(頂点を目指す)の心意気で、Hearts
Minds & Spiritsを鍛え、SkillとStrategy(戦略)を磨くことだ。
校長を退任・退職したいま、なぜか一高ラグビーに対する視界が一層広がり期待感が強まってゆく。
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